古き良き水都松江

松江の魅力!松江はこんあところです。

島根県松江市、と聞いても、ぴんと来ない方もいらっしゃるのではないでしょうか。

そんな貴方に知っていただくために、松江を紹介してみます。

国宝!松江城

見どころは現存している天守閣です。そして、天守閣最上階からは宍道湖が見下ろせ、ぐるり360度の大パノラマが楽しめます。

 

築城したのは、関ヶ原の合戦で豊臣秀吉や徳川家康に戦功と忠誠心を評価された堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、24万石を得て月山富田城(島根県安来市)に入城し松江藩が成立しました。

しかし月山冨田城が古い山城だったため新しく築城したのが松江城です。

 

1607年に末次城のあった亀田山に築城を開始し、16011年に落成してから既に400年以上も経過しています。

 

宍道湖

全国でも六番目の大きさを誇る宍道湖。その宍道湖を挟むようにして松江市があります。

その四季折々の表情、また、朝夕の太陽に照らされた湖面は、見る人を魅了してやみません。

 

私はその宍道湖の湖畔で生まれ育ったこともあり、「松江あっての宍道湖、宍道湖あっての松江」という思いがとても強いです。

よく、朝夕に犬の散歩に出かけるのですが、宍道湖の湖畔の土手はお気に入りのコースです (いや、私がね。うちの犬にとってははた迷惑かもしれませんが)。

 

また、おすすめは満月の夜の宍道湖です。 確かに夕日の宍道湖もいいです。

でも、実は夜中の宍道湖は抑えておくべきです。

みなさんも松江に来られた際は、松江温泉へ泊って食事をし温泉に入った後、夜の宍道湖湖岸の散策をおすすめします。

 

そして、毎年8月の第一土曜日にある松江水郷祭という花火大会もおすすめです。

特に水上花火がとても綺麗で迫力があります。

しかも、宍道湖湖畔の夜景と重なって、美しいことこのうえなしです。

 

あと、宍道湖は御存知の方も多いと思いますが汽水湖(淡水中に海水が侵入している湖)になります。

斐伊川等の河川と、中海の両方とつながっているために海水と淡水が混じり合っています。

その環境のため、しじみ、ウナギ、白魚、スズキなど大変バラエティに富んだ魚や貝類が生息しており、 松江市民の食生活の一端を担うと同時に潤しています。

特に、シジミは全国的に有名です。

私が幼少の時代は、「シジミは湧く」と言われるほど大量に生息しており、升一杯10円なんて言う売り方をしているくらいでした。

しかし、現在その生息数も減少の一途をたどっています。

主な原因は、水温にあるといわれており、数年前はそのあまりの気温の高さにほぼ全滅したほどです。

昨今、地元でも全国水準と変わらないくらいにまでその価格は高騰しています。

 

奥ゆかしい風情と情緒

これについては、松江を知っている人なら賛否両論あるとは思いますが、私はあえてそういわせていただきます。

城下町の上、お茶が盛んという土地柄、独特の品性があるといえます。

町の雰囲気も「山陰の小京都」と呼ぶにふさわしく、あくまでも控えめで楚々としています。

最近はずいぶんと観光化が進んできましたが、ほんの少し観光コースを外れた小径には、まだ 意外な発見があるのがうれしいところです。

 

堀川遊覧の通る堀川また、明治初期から昭和初期にかけての近代建築もまだまだ残っています。

代表的なものに、旧日銀松江支店(現在カラコロ工房という工芸館になっています)、 旧八束銀行本店(現山陰合同銀行北支店)が有名ですが、私のお薦めは、田野産婦人科医院と、トラヤ紳士服店、かげやま呉服店です。

 

田野産婦人科は、明治4年(1871年)に建てられた、木造2階建ての建物です。

その外観は、瓦葺きの屋根ながら、西洋様式のアーチ型の窓など、アールヌーボー様式を思わせます。

 

トラヤ紳士服店は、昭和7年(1932年)に建てられた、木造2階建ての建物です。

しかし、外観からは、木造なのかと一瞬疑ってしまうほど、重厚な雰囲気です。

特に駐車場の壁のレリーフなどは、一見の価値があります。

 

かげやま呉服店、これは明治37年(1904年)に建てられた木造2階建てです。

旧国立第三銀行になります。

前を通り過ぎただけではそれとはわかりませんが、二階に目を向けると土蔵を思わせる重厚な扉のついた 四つの窓が印象的です。

 

おいしい和菓子と抹茶

江戸時代の松江藩藩主、松平不昧公は代表的な茶人一人であったため、その影響から庶民にもお茶を頂く 習慣が古くから根付いています。

実際、毎日のおやつの時間の際に、薄茶を点てることは日常茶飯事ですし、どの家庭にもだいたいは 抹茶を点てる道具があります。

また、お茶自体も大変おいしく、静岡のお茶や宇治のお茶と比べて有名度は劣りますが、 味は何ら遜色のないです。

 

お茶と言えば和菓子が付き物ですが、京都・金沢と並んで菓子処としても有名です。

散策すれば、いくつもの和菓子屋を見かけることができます。

 

そして、松江と和菓子の関係を深めている理由は松江藩七代藩主・松平出羽守治郷(不昧:ふまい)公の存在です。

不昧公は自ら不昧流という茶道を完成させ、茶会で使われた和菓子の数々は「不昧公好み」として現代に受け継がれています。

出雲弁

松江の方言は「出雲弁」と呼ばれています。

訛りが強く、東北弁のように口を大きく開かなくても発音できます。

私は開業するまでは、九州にいましたが、九州の方言とは対照的です。

 

「~たい」、「~ばってん」など、破裂音がその方言の中に入っていますが、 出雲弁の場合、「~しちょー」、「~だわね」など、唇を動かさなくても(口唇の開口度に関わらず) 舌の動きのみで発音できる方言が多いです。

 

ここからは憶測になるのですが、東北や山陰など、雪深く気温の低い地方は、大きく口を開けると 寒いため、必然的に口を開けなくても通じる方言が発達したのではないでしょうか。

松江の近代建築!松江近代建築ツアーとその後

平成12年5月某日、県美主催の「松江近代建築ツアー」に行って来ました。

建築が好きで他県へ建築物を見に行っている割には、松江の建築については知らない部分が多いというわけで申し込みました。

このツアーは、2コースあり、橋北地区と橋南地区のツアーが用意されていました。

橋北地区は、「田野産婦人科」→「浅野小児科」→「蓬莱荘」→「トラヤ紳士服店」→「かげやま呉服店」→「カラコロ工房」。

橋南地区は、「藤忠」→「米江旅館」→「福寿苑」→「出雲ビルと出雲屋」→「尾原呉服店」→「山陰合同銀行北支店」→「カラコロ工房」。

私はこのうちの橋北地区を回るコースを選びました。

 

(平成12年当時の記事です。現在では違う店舗になっているところがありますが、その当時の記録ということでそのままにしております。ご了承ください)

田野産婦人科

明治四年の建築です。

木造ですが、漆喰壁にアーチ窓となっており、 西洋建築の意匠をうまく表現してあります。

また、窓枠そのものもおそらく当時のモノではないか、 ということでした(和釘等を使用してあるため)。

この建物の表は寄りつきのポーチになっています。

少し狭いのは、人力車用のポーチであるからということでした。

 

また、写真はありませんが、表の方には永井隆(永井医学博士)が産まれた病室も残っています。

そちらの方は、さらに古い建築だそうで、下手すると両方とも重文クラスではないかということでした。

もっとも、家の方は、「自分の家でなくなるような気がして・・・」とずいぶん複雑な心境のようです。

 

実際、このツアーに限らず、かなり来訪者がおられるようです。

建築好きだと、ともすると残そう残そうと思いがちですが、何より住んでおられる方の家なわけですから、 誰のために史跡としての指定をするのかなど、官公庁や学者の方はよく考えた上で発言してほしいと思いました。

ちなみに私はここで生まれました。

浅野小児科

大正1年の建築です。

先代の遺言により、10年前にもとの意匠をなるべく残すようにリノベーションされました。

玄関ポーチはエンタシスでささえられています。

リノベーションはしてあるものの、エンタシスなどは当時のままで、縦長の窓についてはもとの意匠を新たな材料で作り直してあります。

この医院で特徴的なのはピンクの下見板張り、そして診療室上部のキャットウォークでしょう。

 

吉日庵 蓬莱荘

もと高級料亭だったものを、旅館に改装してあります(数寄屋料亭建築)。

昭和1年建築で、非常に凝った作りで、玄関の屋根も瓦葺きと銅葺き屋根を組み合わせてあったり、 廊下に橋が架かっていたりします。

注目すべきは照明器具で、非常にデザイン的にいいものが多く、建築ツアーなのに照明器具で多くフィルムを使ってしまいました。

 

トラヤ紳士服店

この建物で見るべき点は二つ。

一つはスクラッチタイル。一見すると何の変哲もないタイルですが、非常に珍しいものです。

また、コーナーの部分はレリーフが彫ってありますが、 これが何を意味しているのかは今持って不明です。

このコーナー部分の上には元々塔のようになっていたとのことです。

 

かげやま呉服店

明治5年11月に公布された国立銀行条例によって、四つの国立銀行が設立されました。

この建物はそのうちの第三国立銀行松江支店として建てられました。

国立銀行とは言うものの、実質民間商業銀行だったようです。

藤好カメラ店が利用された後、かげやま呉服店さんが購入されたとのことです。

この外観の作りは、この建物特有のものではなく国立銀行共通の建て方だったようです。

外の雨戸も鉄製で重く、防犯上の理由もあったと思われます。

 

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